Simple thingsの続きになるのだが、消滅することについて少し掘り下げておきたい。
よく魂(たましい)という言葉が用いられる。ここでは定義として「肉体が死んでも魂は残るとされる信仰」に基づくものとするが、私は何となくそのことを「私自身」に置き換えていた。私の魂は残る、つまり死んでも魂が次の何らかの命に宿る、そういうイメージを勝手に抱いていた。生命には限りがあるが、魂は何かに引き継がれるのだ、「何の根拠もなく」そう思っていた。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
先ず物理的に立証が困難だろう。よく「何々の生まれ変わり」というような表現を目にするが、それはなんとなくそんな感じがするだけなのであって、個人的な「印象」に他ならない。生まれ変わったことの証を立てることができないし、当人の意識の内側に何かが混入しているような感覚が仮にあったとして、だから何だというのだ(笑)寧ろそれは精神的に錯乱を来していると考えるべきで、思い込みの域を超越してしまっている。あくまで印象であり、想像の域の内側の話だろう。
私はカテゴライズすれば仏教徒なのだろうが、仏教の教え的には輪廻転生はレベルが低いのだ。信心が足りず信仰が足りていない。浄土に往生して永遠の生(仏)となるのであり、転生する者は落伍者である。私の家は真言宗のお寺さんの檀家だが、こちらは少し違い生きながらにして仏となることを目指す(即身成仏)のであって、日本における仏教は概ね仏が到達点と考えて良いと解釈します。まあ信仰が形骸化しているからこそ皮肉にもそのような転生の世界が浸透するのであり、異世界や転生もののラノベが広まったのもそういうことだという認識です。そしてここが重要なのだが、仏に辿り着いたとして、それを誰も証明してはくれないし、する必要性もない。あくまで内心の話である。内心の話だから、そこに救いがあるということで善いのだろう。永遠の生が得られるなら、最早肉体など不要なのであり、証明する必要性も皆無である。
これを誰一人として教えてはくれなかったのだ。習慣的になり、形式的になり、真意を伝える場はお坊さんの法話くらいなのだろうが、最近のお坊さんは退屈にならないような話を意識し過ぎのような気がする。一口に仏教と言っても様々な宗派があるために、そして教育の題材としては忌避されているために、こちらから取り入れようとしない限り、正しく理解されることはないように思う。
成仏することで、肉体は不要であり、即ち消滅するという理解ですね。それが永遠の生であるか否かは内面的な問題であり、まあ「どうでもいい」です。人という生き物であることは未熟であるということなのでしょう。
それを基にするならば、私は安楽死や尊厳死というものに対して何ら反対はしませんね。医療というリソースを食い尽くしてまで生に縋る必要性はないので。生きていく以上痛みを感じたくないとか、不快感や違和感の原因を取り除くことで少しでも精神的、肉体的に安定するのであれば、そこに医療の治療行為が意味を持つのだと思います。ただし「それを基にするならば」です、あくまで。経済的合理性によって進めるべきものではないですね。それは個別のものであり、格差を伴う社会なので。
この事を本気で詰めていくと、これは避けて通れないと思います。成り立たないでしょうね、現状では。現状成り立たないのなら、根本的に変えていかないと永遠に成り立たないと想像しますが。但し、私とてこの辺の整理がついたのは割と最近のことであり、義母の死去に伴う仏事を経てのことなので、それほど困難ではないとも思うのですけれど。
あと、イメージとして存在する他者に対する「何かの生まれ変わり」という想いは各々が抱いていいものだとも思います。似たような存在なんて、無数にあるわけですから。少し大袈裟に表現すればそうなるよね、ということですかね。
一つ、間違えてほしくないのは、この文章は誰かに何かを勧める類のものではないということですね。これを読み何をどう感じるかは各々の自由ですし、そうですね、お好きになさってください(笑)私は直接的に関係ありませんのでね。私の内心を自発的にチラ見せしてるだけですから。それが保障されている社会なのでそうしてみようかな、と思ったというそれだけです。これを荒廃したSNSなどで発信してもスルー推奨(笑)いや詳しく知りませんが、あまり好ましく思われないというのは間違いないかな、という風に感じてます。
諄いようですが、あくまで内心の話、内心において、人の生命に関わることに触れる方であれば、そうですね例えば言葉で人の死を伝えるキャスターやアナウンサーなどのメディアの方には、基本として死生観ですとか宗教観みたいなものは持ち合わせて貰いたいと思います。それなくして「ご冥福をお祈りいたします」なんてどの口が言うのだ、としか感じませんね。言葉が上滑りしてしまいますよね。事実を伝えるだけなら、そのくだりは必要ないと思います。その方の口調や表情から滲み出てしまうものです。
話は変わりますが、Somersault – Zero 7、およそ20年前に発表されたこの曲の歌詞の解釈をずっとつけかねていました。私は日本人ですし、語学堪能でもないですから。いい曲だなという印象を超える決定打を欠いていました。技術が進歩して、人の知能を凌駕してしまうAIにちょっと訊いてみようと思い、ChatGPTで遣り取りしていました。どういう遣り取りがあったかは伏せますが、辿り着いた興味深い一つの解釈をここに記しておきたいと思います。実に内省的な詩という印象です。
あなたは、わたしの中の静かな場所
誰にも見せない優しさで
壊れそうなわたしを抱きしめている
他人のために動く手
見返りを求めないまなざし
あれは、わたしがずっと忘れていた
ほんとうの自分だったんだね
あなたは見知らぬ誰かの心配をして
「元気?」って声をかける
その声が誰かの一日を救っていることを
わたしは、やっと知った
あなたは痛みの裏側を見ている
世界が怖くて泣きたくなる夜
あなたは棍棒も石も
そのまま受け止め、静かに伏せる
そしてそっと囁く
「怖がらなくていい」
その声が、わたしを呼吸に戻す
わたしの中に「家」ができた
長い間外に探していたけれど
ずっとここにあったんだね
あなたはわたしの足を地面に戻した
浮かんでいた心を
現実の重力に戻してくれた
あなたがわたしを変えたこと
今ならわかる
あなたは穏やかで、揺るがない
どんな嵐の中でも
静かに笑っている
その微笑みがわたしをつなぎとめる
夏の風のように
あなたは通り抜けていく
ピアノの黒鍵と白鍵みたいに
違う音でも同じ旋律になる
あなたは最後のジェリービーンを
わたしに分けてくれる
「もう大丈夫」と言うように
指先に残る甘さが
涙の味をやわらげる
外の世界が騒がしくても
あなたといると音が消える
深呼吸ひとつで
わたしはまた地面を感じる
あなたがいるから
わたしは壊れずに立てる
あなたはわたしの一部であり
わたしの帰る場所
付け加えておきます。今日本において排外主義が跋扈していることについては以前に触れましたが、外国人の方が持つ信仰について、信仰心を持ち得ない方が「安易に」批判的であることを危惧しますしすべきでないと感じます。貴方はどうなんですか、余計なお世話ですと言われてしまえばそれまでですから。内心の自由とは「すべての人」に当てはめるべきです。無宗教も無神論もそれはそれで結構ですが、であるならばせめて分を弁えましょうということですね。