弔う事を軽んじる風潮

 叔父貴の死の続き。とても並べて置けないので。

 ある人の「娘の卒業式の予定」は認められ、私の「葬儀参列」が叶わなかった事は、偏に弔う事を軽んじる風潮だと感じます。実は、私はそういう要望は出していません。解っていた事を更に確認する程馬鹿じゃないので。

 慶弔休暇とは。「権利として認められる」と解釈していたのですが。

 色んな捉え方が有るのは重々承知の上で。人として「消滅した」事を確認する儀式という理解ですが「身分的な差別」はあってはならないと思うのですがね。大袈裟でしょうか、此方は良いが彼方は駄目という理屈、その姿勢は葬る事を忌避し兼ねない「悪態」では有りませんか。

 慣習はさて置き故人の一生の締め括りとして、関わる全ての方の「異なる想い」が有ります。式によって生者と死者に線が引かれます。何時起こるか解らないから重要事なのです。

 お経、焼香、弔辞等全て型で有り、参列者個々が「如何に送るか」が問われる事で有り。香典を届ければ良いとか、筋が違うのですが。別に卒業式を軽んじるのでも無く。門出を祝う事も育てた証も大事なのですが、基本的には卒業する本人の儀式で有り。

 私の書く事を貴方は理解しますか。出来なければ、それはそれで別に構わないです。

 死者が自らを「消し去る事が出来る」ならば必要の無い事ですね。例えば尊厳死の様なものとして、自ら火葬場のタイマーをセット出来て、それを倫理的に問題としないのなら。叔父貴は認知的な問題が有りましたが、どうすれば良かったか。

 「静止」してみて下さい。

 人は生き物で、何時かに死に、終えるのです。

 

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